映画『燃え上がる女性記者たち』を見ました。

 
映画『燃え上がる女性記者たち』を見ました。
 
 
いやしの森から、 こんにちは🏳️‍🌈
 
先日、映画『燃え上がる女性記者たち』を見ました。
✳️映画の公式サイト は、 こちら。 https://writingwithfire.jp/ インドの映画です。
 
2002年の5月に、インドのウッタラプラデーシュ州で設立された、被差別カーストの女性たちが立ち上げた新聞社「カバル・ラハリヤ( Khabar Lahariya )」の記者たちである女性たちの仕事や生活の姿を追った内容です。
 
インドには、カースト制度(ヴァルナ・ジャーティ)というものが、アーリア人が侵攻した時から、アーリア人によって制度化されたそうです。 元々その地域にいたダリットという人々は、カースト制度によって、不可触民族(触ってはいけない、というニュアンス)とされ、すむ場所や仕事を制限、固定されてきた歴史があります。
 
近年では、カーストの1種であるダリットという名称はそのままでも、不可触という意味を切り離してみるという流れもありながら、過去から続いたレッテルと差別的な見方は実際には根強く社会に影響を与え続けているようです。
 
この映画には、その現在の現実の一部の、ほんの一端ですが、知ることができるチャンスがありました。 同じカースト同士でなければ結婚できない とか、 カーストで許された職業にしかつけない、世襲的に親の稼業を継ぐ以外の自由がない、 とか、 教育が受けられない、 児童労働、 早婚、若年出産、 とか、 住んでいる地域にトイレがないので、いつも外の森にいかなければならない とか、 経験のない苦しみを、もしかしたら死ぬまで知らずにいたかもしれなかった…と思いながら映画を見ました。
 
遠い日本だから、というだけでなく、インドでも、新聞で取り上げなければ、誰にも知られないままになっています。 知られないことで、 苦しみを受けている人も、その原因やしくみも、変えることができず、時や場所、人を変えて、同じ苦難をただ繰り返すしかなくなってしまいます。 そこに、ダリットの女性たち自身が、自分たちの意志でニュースを報道するという行動を起こしたわけです。
 
映画を通してですが、 とても大きなリスクを負いながら、前に進んでいく女性記者たちの姿を見ることができてよかったです。 知らないこと、 考えないこと、 感じないこと、 行動しないこと、 ある時には、 そうすることが賢明という場合もあります。
 
でも、もしも怠惰によってそうするならば、得られるものがないばかりか、精神的にも物質的にも貧しく退化していくことは避けられないと思います。
 
今、世界のあちこちで新たな戦火が上がり、自然と人間社会の折り合いも難しい事象が増えていて、報道の中身は、不幸な内容ばかりのような印象を持ちます。 あふれる情報に、どうアプローチするかは、本来、一人一人の全くの自由です。 (でも、この点すら、現実は平等ではないことも多々あります。) その自由を自分も享受するために、 ・過去の情報による自己判断と現状の事実のギャップを埋める アップデートには、目や心を閉ざさないようにしたいな…と思いました。
 
・どうせ無理 ・何をやってもダメ ・誰がやっても変わらない っていう言葉を言うとき、 聞くとき、 自分の心に聞いてみようと思います。 それは、本当ですか? どこに証拠がありますか? どんな根拠ですか? 変わらない、変わっていないと思い込んで言い張る人の分厚く頑なな偏見を、 それよりもはるかに強固な意志や希望や信頼で突き破った人たちの事実。
知る ことで、善く変わる可能性を、人間は捨てるべきではないということを教えてくれた映画でした。
 
一方的に与えられる情報が、ネガティブだったり、不幸なものだったりしたら、自分の力で新たな、ポジティブで幸せなニュースを探してみることも、それを誰かとシェアすることだって可能です。
 
一つのグッドニュースとして、ご興味をもってくださった方は、ぜひ、この映画『燃え上がる女性記者たち』をご覧になってみてくださいね。
 
Words by 赤月凪 亜優見