愛も憎しみも、「わたし」のこころ から生じる こころ。

愛も憎しみも、「わたし」のこころ から生じる こころ。
 
 
 
いやしの森から、
こんにちは🍀😊🍀
 
amin 周年祭 記念イベント、
ヒマラヤの風 主催
<慈悲の瞑想無料ワークショップ> in 札幌
 
おかげさまで、無事に開催、終了しました。
 
今回は、amin の周年祭記念企画として、慈悲の瞑想会の会場手配、会場使用費用を、いやしの森 amin と参加者のみなさんとで協力して協賛、開催する形でした。
 
ご興味をもってくださった方、
ご参加を希望されていたのに叶わなかった方、
 
そして、
いやしの森 amin にたずさわってくださった、たずさわってくださっている、たずさわってくださる過去・現在・未来のすべての方々、すべての生命に💓
 
今回の慈悲の瞑想会の内容のエッセンスをシェアして、
 
amin の 周年祭のお祝いにかえさせていただきます✨
 
🌹愛も憎しみも、「わたし」のこころ から現れる こころ~ 慈悲喜捨のこころを育んで愛の苦しみから自由になる~🌹
 
わたし は、
「わたし」 を意識すること 
をおぼえて、
 
「わたし」 以外の「他の生命」 を意識すること
をおぼえて、
 
生命と 生命でないもの・こと を意識すること
をおぼえて
 
それ以来、
ずっとそれらを意識する 
という行為を
自分の心で して、して、して…
 
それから、
 
その行為の結果として生まれた衝動/エネルギー によって突き動かされ、
 
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、想う、知る
という行為をします。
 
その度に、
いつでも、
 
「わたし」 が見ている、
「わたし」が聞いている、
「わたし」が嗅いでいる、
「わたし」が味わっている、
「わたし」が触れている、
「わたし」が思っている、
「わたし」が知っている、
 
と、
いちいち
認識をつくって、
「わたしが」、
「わたしが」、
と忘れないように認識を強化していきます。
 
感情も思考も、
「わたし」という認識をいれた流れの結果として、
 
「わたし」の感情
「わたし」の思考
 
と想います。
 
見る
聞く
嗅ぐ
味わう
触れる
想う
知る
 
ことを成り立たせている原因・条件である
 
五感と思考に必要な身体という物質(地水火風)
→ からだ
 
と、
 
それらの処理のはたらきと力(機能)
→こころ
 
も、
 
そのような流れで認識するなら、
 
「わたし」の からだ
「わたし」の こころ
 
と想います。
 
「わたし」 の からだ
「わたし」 の こころ
 
でした行為の後に、
 
感覚を感じる行為、
感情を感じる行為、
 
が生じます。
 
苦・楽・不苦不楽
怒り・欲・無痴・慈悲喜捨
 
のエネルギーを知り、感じる行為をします。
これらも、
 
「わたしの」
苦・楽・不苦不楽
怒り・欲・無痴・慈悲喜捨
 
と想う行為をいれて、
 
「わたしの」
苦・楽・不苦不楽
怒り・欲・無痴・
 
と、
「わたしの」もの にします。
 
(わたしの経験、わたしの生活、わたしの人生…エトセトラ、エトセトラ。)
 
一つ一つの行為の現象を、
「わたし」という流れにくくろうとする、
 
意志と衝動 のおかげで、
 
やっとなんとか、
かろうじて
 
「わたし」がいる と
思ったり、
感じたり、
考えたり
します。
 
そのような行為を、
止めずに維持・継続しているのです。
 
「わたし」 の愛 も、
そんな風に、
 
「わたし」のこころ から
一時的にあらわれて、
変化して、
最後には必ず消えていく
こころ の一つです。
 
「わたし」 という条件範囲がつくられてある、有限の愛は、永遠不変ではありませんし、万能でもありません。
 
自他のこころ をしらべれば、
 
愛が原因で、憎しみや怒りや孤独や害などがこころに生まれることを知らない人はいないと思います。
 
「わたし」の愛を想うこと、
「わたし」の愛にこだわることで、
 
欲・怒り・無痴が新たに生じ、
 
こころが汚れて苦がふえていきます。
 
苦から逃げようと
もがけばもがくほど、
外に向かって走れば走るほど、
 
こころは重くなり、ヘトヘトになって、傷だらけになるのです。
 
もし、
この繰り返しに疲れ果てたなら、
 
この繰り返しに終止符をうちたいのなら、
 
<慈悲喜捨>のこころを開発すれば、「わたし」に閉じ込められて、不自由で、汚れて力をなくした こころ を、解き放つことができる…
 
と、ブッダが見い出したのです。
 
<慈悲喜捨>のこころ は、仏教への信仰や、仏教徒であること に限定されない、人間ならば誰にでも開発可能なこころです。
 
「いきとしいけるもの の幸福を願い、不幸を願わない」
 
そのこころ だけで生きていられるところまで、
 
「わたし」というこころ の仕切りを、破って拡げて、自由にできるのが、ブッダの説いた<慈悲喜捨のこころの開発と修習法>です。
 
慈悲喜捨のこころ には、
欲・怒り・無痴 のこころ がまじりません。
 
それで、
過去につくった「わたし」の
欲・怒り・無痴 のこころ から離れるようになるのです。
 
もちろん、人間は社会的動物ですので、愛情を無視して成長することも、生きることも不可能です。
 
いきなり、極端に、無理矢理に
 
愛情を抑圧したり、否定したりすることではなくて、
 
今の自分のこころ に、慈悲喜捨をつくってみることからはじめてみれば、愛に依存しっぱなしのこころ が、少しずつ成長していきます。
 
慈悲のこころを感じたときの、
 
安らぎ、落ち着き、平和、やさしさ、楽さ、喜び、軽やかさ、清涼さ、明るさ、清らかさ、楽しさ、智慧。
 
これらが、
慈悲喜捨のこころ から生まれる結果です。
 
慈悲喜捨のこころ から不幸や苦しみは生まれません。
 
どんな生命も、自分より愛しいものはいないとおもっている。
 
どんな生命も幸福になりたいとおもっている。
 
この自他の関係性から生じるあらゆる矛盾・葛藤 を乗り越えるための一つの道として、
 
ブッダの<慈悲喜捨のこころの開発と修習法>があります。
 
もし、興味や関心が生まれたら、まずは知ること、学ぶことから、自由にはじめることができます。
 
自分が<慈悲喜捨>の開発や修習を取り入れるか、どうするかを決めるのは、その後です。
 
そして、それも、
自分の自由に、自分の責任で選ぶべきだと思います。
 
慈悲喜捨のこころを育むために、
誰か・何かに祈ることは必要ありません。
 
祈っただけでは、慈悲喜捨のこころ は、生まれません。
 
「わたし」の世界は、「わたし」が知ることで生まれるものですから。
 
すべては
「わたし」のこころ 次第。
 
「わたし」が、「わたし」への愛着・執着から自由になるこころ を知ることで、
 
「わたし」と他の生命すべての幸福を願い、不幸を願わないこころ が生まれます。
 
自他を幸福にする能力とは、自他の苦しみをつくらない能力です。
 
<慈悲喜捨>は、無害のこころ です。
 
<慈悲喜捨>のこころ で、
苦しみではなく、
幸福を与えあい、受け取りあって生きていきたいです。
 
🍀いきとしいけるもの が
幸せでありますように🍀
 
 
Words by 赤月凪 亜優見